踊りは形だけでは届かない 舞踊技術における「心の姿勢」
振付は合っているのに、なぜか伝わり方が違う。
本番になると緊張して、普段のように踊れない。
そんなことを、踊りに関わる多くの人が一度は感じたことがあるのではないでしょうか。
自分は長年舞台に立ちながら、その違いは感情の強さだけではなく、身体の中にある「心の姿勢」によって生まれるのではないかと感じてきました。
今回はそのことを、できるだけ丁寧に言葉にしてみます。
表現はどこから立ち上がるのか
舞台の後方から見えてきたもの
長年、フラメンコの舞台に伴奏者として立ってきた。
自分の位置は、主に舞台上手後方。踊り手のすぐそばにいながら、同時に客席の空気も見える場所だった。
その場所に長くいたからこそ、踊り手の一つひとつの所作が、客席にどう届いているのかを見続けることができた。
そしてその観察は、フラメンコに携わる以前に学んでいた古武術の身体感覚と、どこかでつながっていった。
形の前にある「初動」
古武術では、身体の所作によって相手の重心を崩すことや、自分に有利な位置を生み出すことを学んだ。
そこには、単なる形ではない「初動」の重要さがある。
どんな形も、突然できあがるわけではない。
下丹田、中丹田、上丹田のいずれかを起点とした回転が起こり、そこから自然な筋肉の収縮の順番が生まれ、最終的に一つの形へと至る。
つまり、結果として見えているポーズには、その前に必然の流れがある。
この感覚は、舞踊にも深く通じているのではないかと感じてきた。
踊りにおいても、形だけを追えば、たしかに動きは成立する。
けれど、その形に至るまでの初動に必然性があるかどうかで、見えるものは大きく変わる。
ただ美しく整っているだけではなく、そこに「なぜその身体になったのか」が立ち上がる時、所作は急に深みを帯びる。
自分以外の何かとの関係で重心は決まる
武術においてその初動は、相手との関係の中で自分の重心を決める。
舞踊においてもまた、自分の中だけで完結する重心ではなく、自分以外の誰か、あるいは何かとの関係の中で定まる重心があるのではないかと思う。
その関係性が身体に生まれた時、空間には見えない相手が立ち上がり、観る人はそこに物語や気配を感じ始める。
自分はそれを「心の姿勢」と呼んでいる。
「心の姿勢」は所作の中に現れる
たとえば、手を伸ばし、何かを掴み、その後に上へと掲げる動きがあるとする。
その動きがただの順番として行われるのか、ある感情のうねりから生まれるのかで、観客が受け取るものはまったく違ってくる。
息を吸う。
中丹田が上に回転しふっと持ち上がる。
その初動から生まれたうねりが鞭のように連なって指先まで走り、何かを掴む。
次の瞬間、上丹田がその「何か」へ視線を向ける。
そして息を吐きながら、それが自分から離れていくのを見送る。
つながりが切れた時、中丹田が下へ回転し、結果として胸はうつむく形になる。
ここには、感情だけではなく、その感情への向き合い方がある。
この所作の場合、中丹田から感情が生まれ、上丹田を感情の向き合い方として捉えると、この現象がとてもわかりやすくなると感じている。
感情を作るのではなく、組み込む
大切なのは、感情をその場で無理に作ることではない。
感情と向き合い方が、すでに所作の中に組み込まれていること。
そのとき身体は、ただ動きを再現するのではなく、意味を帯びて立ち上がる。
観客はそれをみた時に
心臓の鼓動が高鳴り、
呼吸が変わり、
体温が変わる。
そして過去の自分のある瞬間をふと思い出す。
舞台の上で起きたことが客席の身体を通し、過去の記憶にまで届いていく。
自分が「心の姿勢」と呼んでいるものは、そういうことなのだと思う。
それは、勝手に湧き起こる感情そのものではなく、その感情に対して身体がどんな姿勢を取るのか、ということでもある。
なぜ表現は教えにくく、身につきにくいのか
振付を覚えることがゴールになりやすい
多くの舞踊家が表現力について悩んでいる。
そして、自身に表現力がある人であっても、それをどう生徒に伝えたらいいのかわからないという話をよく耳にする。
生徒はしばしば、振付を覚えることをゴールにしてしまう。
もちろん振付を覚えることは大切だ。
けれど、それだけで終わってしまうと、踊りはどうしても似た印象になりやすい。
順番は合っている。形も合っている。
でも、なぜその所作なのか、その場面で何が起きているのかが身体に刻まれていないため、踊りが表面をなぞるだけになってしまう。
身体に「意味」として残らないと忘れてしまう
何か月もかけて覚えた振付を、一年も経たないうちに忘れてしまうということも少なくない。
それは単に記憶力の問題というより、その振付が身体の深い場所に意味として残っていないからではないかと思う。
場面ごとに何を表現しているのか、自分の中にどう印象づけているのか。
そこが曖昧なままだと、動きは積み重なっても、表現としては育ちにくい。
「感情を乗せる」だけでは足りない
また、よく聞く言葉に「本番で感情を乗せられなかった」というものがある。
けれど自分は、演舞中に感情を“乗せる”ことで表現が生まれるとはあまり思っていない。
むしろ本番中は、どこか冷静であるべきだと思う。
執着の強い状態よりも、余計な力みのない状態の方が、結果として観る人に深く届くことが多い。
そして、心の姿勢として所作に組み込まれているからこそ、表現している刹那にアドリブという別な一手が湧き上がる可能性があるとも思う。
緊張は経験だけでは解決しないことがある
さらに、本番で緊張してしまい、普段の力を出しきれないという悩みもある。
場数を踏めば乗り越えられることもあるが、それだけでは変わらない人もいる。
本番の数は多いのに、舞台に立つたびに極端に身体が固くなってしまう人もたしかにいる。
そういう時、緊張の正体を見つめてみると、その多くは未来の評価への不安や、間違えてはいけないという思考、自分への否定に近いものかもしれない。
そして、その不安を消そうとするほど、かえって身体は硬くなる。
表現に集中すると、身体は今ここに戻ってくる
自分自身の経験では、そういう時こそ「心の姿勢」を表現することに集中すると、身体が少しずつ柔らかくなっていく。
緊張がなくなるというより、緊張が別のエネルギーへ変わっていく感覚がある。
感情と、その感情にどう向き合うのか。
そこに意識が向いた瞬間、未来への不安から離れ、今ここで起きていることへ身体が戻ってくるのかもしれない。
自分自身に起こる緊張という名の感情を、もう一人の自分として俯瞰しコントロールできるのかもしれない。
もしそうだとしたら、表現の技術は、単に「見せ方」を学ぶためのものではない。
舞台の上で自分を支える技術でもある。
そしてそれは、教えられるし、稽古できるものでもあるはずだ。
形の先にあるもの
表現は気分ではなく、身体の中に育つ
自分は、舞踊における表現力とは、感情を激しく出すことでも、その場の気分に任せることでもないと思っている。
身体のどこから動き始めるのか。
その動きが何とつながっているのか。
そして、その感情に対してどんな姿勢を取るのか。
そうしたことが所作の中に組み込まれた時、踊りはただの動きではなくなる。
振付の先を育てること
振付を覚えることは大切だ。
けれど、その先にあるものを育てなければ、表現は深まっていかない。
逆に言えば、身体の初動と連動、そして「心の姿勢」に目を向けることで、踊りはもっと立体的に、もっと人の身体に届くものになっていくはずだ。
「心の姿勢」の先にあるもの
踊りは、形だけでは終わらない。
身体の中にある見えない姿勢が、動きに意味を与え、空間に気配を生み、人の心と身体に触れていく。
今回示した表現への手段は、舞踊に取り組む人の手がかりになると思う。
ただし、これは舞踊表現の入り口にすぎない。
「心の姿勢」とは所作の一つの形であり、我々が目指す所作とは、立体化という3次元的表現にとどまらず、その先にある時空のコントロールにまで及ぶ。
舞踊における所作の理論と実践を「踊る体の術」として研究を行っている。
メンバーシップ制なので、興味のある方はこちらに連絡をいただきたい。

